第8回「いじめ・自殺防止作文・ポスター・標語・ゆるキャラ・楽曲」コンテスト
 作文部門最優秀賞受賞作品


    『 継続は力』        

                                           影山 寿美枝

 このところ、差別や偏見に対して全世界で喧しい。アメリカ旅行中、有色人種への言葉にならない差別を味った。が、中国や韓国での日本人に対する嫌悪感を顕にされた比ではなかった。歴史の爪跡による本能に刷りこまれた迸る払いきれない嫌悪に、戦争は絶対にしてはいけないと心に刻んだ。

 特に裕福な家庭に育った訳ではなかったが親の七光の許、幼少期はもとより、結婚後も通していた。一男四女の三番目として育ったので、権力のある姉たちに従う日常の中で、社会の中で生きる術を培っていたのかも知れない。学校でも、一番でもビリでもない、中より上位の位置にのんびり鎮座し、いじめられる要素は少なかった。結婚して、早世した夫亡き後、幼い二人の娘を養育するため英語塾を開校した。細々ながらも、二人の娘を大学まで卒業させる事ができたのはご近所の善意に支えられたからで、亡父の恩恵に浴した事が大きかった事は否めない。

「差別」を感じた最初の経験は、37歳で逝った夫の死後、小学二年生の次女が、音楽の教科書を紛失し、使用済の長女の教科書を学校に持って行った事が発端となった。その日は、運悪く、隣席の男の子も音楽の本を紛失していたらしい。たまたま 次女が学校の机の中に置き忘れた自分の分を見つけて、姉の分と二冊手にしていた事から始まる。

「貧乏人のドロボー!」

と、腕白盛りの男の子が叫び、次女は、たちまち、皆の囃子の渦に巻き込まれた。帰宅後、その話を聞いて、黙って囃され続けた次女を、もどかしく思い
「何故、言い返さなかったの?」

と質した。 次女はしょんぼり、

「だって、お父さんのいない家は、貧乏でしょ!」
 
 私は「あっ」と息を呑んだ。私には、そんな経験が無かったので、そういう言葉を予想できなかった。

「お金の無い貧乏は、決して恥ずかしい事じゃないのよ!心が貧しい事の方が恥ずかしい事なの!」

 と諭した。後日、PTAの会合で、クラスのお母様方にその一部始終を話した。一粒の涙と共に。
 無力の親の成すべき事は、声を大にして「差別」から子供を必死で守り抜く事だった。
 結局、先生から音楽の本は男の子が自分の家に忘れた事を確認してもらい、本人が皆の前で謝る事で一件落着した。それ以後、次女は、いじめにもあわず、のびのびしすぎるくらい明るく学校生活を送った。片親というどうにもできない「差別」に対する弱者も、弱者だからこそ闘わなければならない事を思い知らされた事件だった。
 また反感かわれるより、自分の身に置き換えて、共鳴して下さったお母様方も多かった事にも感動した。 その後も、波乱万丈の人生を、転んでは起き、起きてはまた転びながらも、仕事にも趣味にも目一杯の生活を謳歌していた。

 東北大震災の後、不況の波は英語塾にも影を落し始めた。65歳で終活を考え、自宅を引き払い、高齢者用自立支援マンションを終いの住み家に選んだ。新転地では年齢制限など職探しには苦闘した。英語を生かせる職など夢のまた夢となってしまった。

 大きな介護施設の調理補助の職を得た時、不安ばかりのスタートだった。150人の食事作りには、アレルギーやさまざまな症状に対応する食事を一秒を惜しんで、きれいに仕上げなければならない。私の職歴から程遠く不慣れなせいもあるが、私は不器用なのだった。
 場違いなところに転り込んだ気持はあったが、そして私より若い人たちが要領よく手際よくこなす仕事振りに、ついてゆけない劣等感に苛まされたが、私のプライドは、辞めて良かったと思われるうちは絶対辞めない!引き留められるようになるまで頑張る事だった。

 年寄りには年寄りの仕事の仕方がある。“ミスを無くすこと”“ていねい”“若い手際良い人を見習う。”何ヶ月かすると、虐めにあっても苦にならなくなった。仕事振りを評価してくれる人が現われてきたのだ。苦手だったきれいに早く盛りつける術もいつの間にかこなせるようになった。体調を崩し、辞めなければならなくなった時は、引き留められるようになっていた。

 シルバー人材センターからの仕事に転換し趣味も楽しんでいる日々に翳りが見え始めた。74歳の頃から神経痛に悩まされ始めたのだ。ようやく信頼できる接骨院に巡り会い通い始めた矢先、駅のホームから線路上に叩きつけられるように転落する事故にみまわれた。頭蓋骨骨折、全身打撲による強度の目眩いと痛みで、救急車で搬送先の病院で5日間の入院と長期自宅療養を余儀なくされた。日毎に回復しつつも、足腰の衰え、目眩いに加え軽度の認知症の症状にも脅かされ始めた。
 
 社会復帰を願い、自宅から一歩外に踏み出すと、そこは、強者たちばかりの世界にみえた。脚の不自由さゆえ、不当な扱いを受けたり、モタモタする私は怒鳴れたり、あからさまに邪魔者扱いされる耐え難い屈辱に歯噛みをした。“老兵は消え去るのみ”醜く何かにしがみつくのではなく、潔く静かに消える事に人生の理想を求めていた私の心が、静かにでも確実にフツフツと湧き上る何かを…怒りを感じ始めていた。

 九死に一生を得た体験は、私を一気に、社会の中で完全に克服できない弱者となってしまった自分を自覚していた。“これで私の人生終ってたまるか”という湧き上がる怒りが起爆剤となったようだ。怒りと現実には差があり、仕事を辞め、趣味もみなおす人生の岐路に立った。ご近所づきあいをコーラスに求めた。ハードなテニスを辞め卓球に絞った。英会話教室はTVで英語のニュースをみることに変更した。

 長年親しんできた卓球をライフワークとし、10年来のコーチの許にレッスンに通い始めた。片道二時間をかける道のりは、階段は手すりに頼りながらも次第に足腰を鍛えたようだった。バスや電車の乗り継ぎは脳に刺激を与えた。なにより、レッスン中の一心に白球を追う、他の何物にも変え難いひとときは私に活力を与えた。脚が動き出した。いつの間にか基礎技術がしっかり身につき、はるかに高い水準を目指す事も夢ではなくなってきた。強豪チームの片隅にいた私は、チーム主力となる他の方々の、ますます弱者となった自分に対しての心情を察して退会していた。“老兵は消えた”のだ。

 ところが、単独で試合参戦を考えていた私に、他チームからのお誘いが舞い込んできた。団体戦戦力として活躍するには、年齢、体力共に不安の私は、若い方の教育係としての立位置をまかされた。願ってもないお話だった。今、私は、助っ人をできるよう、日々励んでいる。若い人たちに、持てる技術を惜しみなく提供できる努力も怠らない。あちこちの痛みは、卓球の白球を追いかけている時は感じない。

「あれっ!」「影山さん飛んでる!」

  テニスの錦織圭選手の“エアーケイ”ならぬ“エアースミエ!”こういう状況が、いつまで続けられるかは判らない。 経済的先行きの不安もある。でも、今、やれる事を精一杯楽しんでいる。そして多少なりとも、人のお役に立っている。もし、あの事故で自分を駄目と位置づけたら、今の充実した幸せを味わえなかったと思う。どんなに年をとっても自分の身体に自信がなくなっても、できる事を挑戦し努力していれば、社会の中で道が拓けると確信した。とりあえず、弱者だけでとり残されない自分がいる。

 老人社会と言っても過言でない昨今、あちこちで補助器具を頼りに、不自由な身体を支えて買い物する姿を見うける。今は、その姿を美しいと思う。仕方なく頑張る人も!頑固で自立しようとする人も!私には素敵に思える。

“老兵は消え去るのみ”を理想と掲げてきた事を撤回しようと思う。臨機応変に自分の立ち位置を判断し、年令や体力に応じた適格な仕事を、一切の変なプライドを捨て、飛びこめる勇気を讃えたいと思う。社会の荒波の中に、どんな障害を抱えていても、出て行く勇気を立派だと思う。
 仕事でも趣味の中でさえも“いじめ”と思える事に多々遭遇している。私はそれを「差別」ではなく「区別」と想い、強者に対等な言葉を返せるまで努力した。人一倍の努力を。そして辞める時は“辞めないで”と相手に言ってもらえる状態になった時と決めていた。

 要するに、負けている時=いじめにあっている時は絶対辞めなかったのだ。いじめられたと想った時は、多々、自分の心にも、余裕がなかった気がする。お金の無い事で不当な扱い受けたら働けばよい!能力無くて馬鹿にされたら“ていねい””ミス無し“を心掛けたら信頼された。いつも、いじめは、自分との闘いの場だった。怒ったり、悲観したり、自信持てなくなった時、一番好きな事に全力投球した。自分の能力が少しずつ向上する事に喜び、自分をほめてあげた。他の人と比較はしなかった。
 
 努力はいつの間にか他の誰かの目に止まり、新しい道が拓けてきた。思いがけないところから。逃げるが勝ちの場合もあった。太刀打ちできない相手とは、早目の踏ん切りが必要だと思う。自分の心がボロボロになる前に。

  今、逃げたくても逃げられない隣人トラブルにあっている。受動喫煙と、24時間通して聞こえるゲーム機の電子音だ。外出する事で紛らわしているが、いじめの形も時代と共に変化してきた。何時、自分が相手に嫌な想いをさせているか気づかなくなっている世の中を怖いと思う。